結城浩:ChatGPTに対して、私が書いたNotebookLMを使って「読書」しながら思ったことという文章を提示し、肯定的な反応・否定的な反応にはどんなものがあるかを文章として描いてもらいました。以下の文章は人名も含めてChatGPTの創作によるもので、すべて架空です。
追記:- AIに文章を読んでもらう意味
NotebookLMを使って「読書」しながら思ったことの概要
GoogleのAIツール「NotebookLM」を使って、分厚い実用書を短時間で読了した体験をもとに、「読書とは何か」という問いを考えたエッセイ。情報を得るための読書と、体験としての読書という二つの側面に言及し、AI時代の読書の在り方について静かに問題提起をしている。
中村由香さんの考え
さっき見かけたこの記事、「NotebookLMを使って読書してみたら、読書って何なんだろうって考えた」っていうやつ。読んでて、なんだか静かにうなずいてしまった。私も分厚い実用書を読まなきゃってとき、どうしても途中で止まっちゃったりするんだよね。でも、目的が「理解」なら、全部を丁寧に読む必要ってあるのかなって思ったこと、正直あった。
体験としての読書と、情報としての読書を分けるって発想、すごく腑に落ちる。文学とか物語を読むときって、ページをめくる時間や感情の揺れまで含めて「読書」だけど、実用書やリファレンスを読むときはまた別なんだなって。私もNotebookLM、ちょっと試してみようかな。そう思わせてくれる、静かだけどあたたかい文章だった。
斎藤啓介さんの考え
さっき見かけたこの記事、AIで読書を効率化して「読書って何だろう」と考えたって話。うーん、どうにも引っかかる。いや、便利さを否定するつもりはない。けれど、それを「読んだ」と言ってしまっていいのか。たかが30分で要点だけ掴んで、「一通り理解しました」って、それは読書とは違う営みなんじゃないか。
読書って、そんなに急ぐものだろうか。むしろ、時間をかけて向き合うからこそ、言葉が沁みてくるんじゃないか。そういう感覚を、「効率化」って言葉で切り捨ててしまうのは、あまりにももったいない。読書という営みの奥深さを、技術のフィルターだけで測ってしまうとしたら、それはとても貧しいことだと思う。残念ながら、僕にはこの文章は響かなかったな。
中村さんと友人の対話
由香「さっき見かけたこの記事ね、NotebookLMを使って読書したって話、すごくよかったんだよ。体験としての読書と、情報を得るための読書を分けて考えるって、すごく納得感あってさ。」
友人「由香はそういうけど、私はそうは思わないなあ。」
由香「え、そう?どうして?」
友人「なんていうか、“読書”って、効率とか目的で分けるもんじゃない気がするんだよね。たとえ実用書でも、その場で何を感じるかとか、ページをめくるリズムも含めて“読む”ってことじゃない?」
由香「うん、でもたとえば急いで調べたいときとか、全体像だけつかめたらいいって場面もあるじゃん?そのときにAIの助けを借りるのって、悪くないと思うんだけどな。」
友人「もちろん、便利なのはわかるよ。でも、AIに要約されて、それで『読んだ』って言われると、ちょっと違和感ある。自分の頭で消化していくプロセスがないと、ほんとの読書にはならない気がして。」
由香「うーん、なるほどね。やっぱり、何を読書に求めてるかって人によって違うんだね。」
友人「そうそう。私はどっちかというと、“非効率な時間”に価値を感じるタイプかも。」
斎藤さんと同僚の対話
斎藤「さっき見かけたこの記事、AIで読書したってやつ。どうも受け入れがたかったな。たかが30分で要点だけつかんで“読んだ”なんて言われても、違うだろうって思ってしまってさ。」
同僚「斎藤はそういうけど、自分はそうは思わないなあ。」
斎藤「ん?どういう意味?」
同僚「いや、もちろんじっくり読む読書も大事だと思うよ。でも、全部の本をそんなふうに読む必要ってあるかな?効率よく情報を得たいときって、正直あるし。」
斎藤「情報を得たいだけなら、別に“読書”じゃなくていいじゃないか。本を読むってのは、もっと向き合う営みだと思うんだよ。」
同僚「でも、その“向き合い方”にも種類があっていいんじゃない?AIでざっと全体をつかんでから、気になるところを掘るってやり方も、今の時代らしくてアリだと思うけどな。」
斎藤「……たしかに、道具としての使い方しだいってところはあるか。」
同僚「そうそう。読書に“こうあるべき”って型を決めすぎない方が、むしろ本に触れる人は増えると思うよ。」
(2025年5月14日)